
@Perfect_Insider 鋭い指摘だと思います。しかし、我々が「優しいマゾヒスト」の視点に立って虐待を受容できることは、別に不合理ではないのでは。反転可能性テストは、「最低限満たしていなければ特殊的正義構想の枠に入れない」という消極的な形で働くものであることを想起すれば。
2012-01-01 21:38:42 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn しかしだとすると「特殊正義構想の枠」にはほとんど何も入れない気がします。視点の反点まで含めると、通常の人もマゾヒストも共に受け入れるものでないといけないので例えば「虐待を禁ずる」も「虐待を認める」も両方とも支持できなくなってしまうと思います。
2012-01-02 00:11:51 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider なるほど、問題の所在がわかってきた気がします。正義論が念頭に置いているのは、ある法令の正義適合性ですよね。すると、ここで、「虐待を認める」というのは、いわば「怪我をさせても罪に問われない」という法令を指すということですよね。
2012-01-02 09:01:45 - 返信元ツイートを取得する
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@Perfect_Insider そうすると、マゾヒストは、傷つけられることに対しての同意をしているからこそ、傷害を受け入れるわけで、ここで正義適合性が問題になっている法令は、実は、「同意なき限り傷害は禁ずる」という現行刑法そのものだということになりませんか?
2012-01-02 09:04:44 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider マゾヒストであっても、傷つけられることへの個別的同意がないのなら、傷害を許さないはずです。つまり、「いかなる場合であっても傷害に問われない」という法令はマゾヒストでも受け入れないはずですから、反転可能性がなく、正義不適合ということになりそうです。
2012-01-02 09:08:26 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn 確かにマゾヒズムの場合は「自由と同意」の問題があるので、そのご指摘はその通りですね。では井上『自由論』に出ていたもう一つの例である「自らがユダヤ人であったら自己の抹殺を受任する狂信的ナチ」はどうでしょう?これは同意の問題では解消できないように思います。
2012-01-02 10:46:56 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider なるほど、それは難問ですね。問題は、自己がユダヤ人である場合に、ユダヤ人の民族的抹殺を政治思想とする人間が「理論上」ありうるか、という点ですね。もし、そんな人間はありえないのならば問題は消滅します。が、そうでなければ難問です。うむむ…
2012-01-02 11:11:46 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider あ、違います。ユダヤ人殲滅法の場合、自己がユダヤ人であると仮定しても自己への殺人を受容する人間の存在は関係ないのです。狂信的でないナチスにとっては、反転した場合に自己への殺人を受容できないのだから、それをもって、反転可能性なしとしてよいのです。
2012-01-02 11:19:40 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn 反転可能性は「可能性のあるすべてのケース」を当てはめるので、実際にいそうかどうかは重要でない気がします。よりありそうな例としては「自分が女性でも女らしくする家父長制論者/自分が男性でもジェンダーを気にしないフェミニスト」とかでしょうか。
2012-01-02 18:28:08 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn つまり反転可能性を「状況」のみに適用した上で、ユダヤ人殲滅を主張する論者が「狂信的ナチ」ではなく「普通のナチ」である場合には問題が生じないということでしょうか?
2012-01-02 18:30:00 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider ですです、実際上いそうかどうかは関係ないと思います。なので、「理論上」存在しうるかと書いたのです。でも、その後考え直して、次のツイートを書いたのです。
2012-01-02 19:02:25 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider つまり、「あらゆる人にとって反転可能であること」が正義適合性の最低条件とするならば、「自分がユダヤ人ならばユダヤ人殲滅を受容できない」という人がいる限り、狂信的ナチの存在可能性とは関係なく、正義に適合しないのではないか、と。
2012-01-02 19:05:33 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider しかし、反転可能性をこのように理解することが適切なのか、ということに疑問もありますね。この議論を通じて、井上達夫『共生の作法』での論証過程から考え直してみようと思いました。
2012-01-02 19:11:57 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn しかしその基準だと、「ユダヤ人を虐げてはいけない」というごく普通の命題が「狂信的ナチ」という可能的存在が許容しないというその理由によって「「ユダヤ人を虐げてはいけない」は正義に適合しない」という不合理な帰結を生むような気がします。
2012-01-03 00:20:23 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider そうです、一見そのような不合理な帰結が導かれる気がしたので、「反転可能性テーゼに対する自分の定義が間違っているのでは?」と先程書いたわけです。そこで、これに再反論する前にまず、あなたは反転可能性テーゼをどう定義づけているか、お聞かせ願いたいです。
2012-01-03 08:27:36 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn 私は、普遍化可能性テーゼと反転可能性テーゼは異なる命題であり、後者はどのような(状況の反転/状況+視点の反転)解釈をしても不合理な帰結を生むので、正義の基準としては後者は捨てて前者を用いるべきだという立場です。
2012-01-03 11:05:16 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn なお、普遍化可能性テーゼと反転可能性テーゼの違いはすでに軽く書きましたが( http://t.co/F35tqzGr、 http://t.co/i5FP7vrR)要は「私の感覚...
2012-01-03 11:09:56 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider はい、なので、そこであなたが考えている「反転可能性テーゼ」の定義を教えてください、ということです。「ある法命題について反転可能性があることが正義の適合条件である」ということの具体的意味ですね。
2012-01-03 11:34:31 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider 念のため書くと、反転可能性テーゼの内容の話であって、単に「反転可能」の解釈問題のことではありません。先程のナチス問題の逆説が起きる原因はそこに関わる気がしますので。ついでに、普遍化可能性テーゼの意義と両者の違いも詳しく教えていただけると幸いです。
2012-01-03 11:38:42 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider 「だからもう書いてるだろ!」と気分を害されるかもしれませんが、違うことを訊いていることは前のツイートでわかっていただけると思います。丁寧な議論ができる方で、大変楽しませていただいてます(^^)
2012-01-03 11:44:39 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn 「状況の反転可能性」については「もし自分が他の立場であったとしても、その正義構想は受容可能か」というテーゼ、「視点の反転可能性」は上記の反転に加え「もし自分が他の価値観・嗜好を保有していたとしても、その正義構想は受容可能か」というテーゼだと理解しています。
2012-01-03 20:42:56 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn そして、どの立場/価値観においても受容可能でないなら正義構想として認められない、という判定基準だと考えています。これに対し普遍化可能性は、井上の文脈だとエゴイズムの問題、「私が私であるがゆえに特権的に扱う問題」に引きつけていますが、私はより広く捉えています
2012-01-03 20:48:39 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn 私の「普遍化可能性」理解は、端的に言えばダブルスタンダード批判(同一的範疇にあるものは同一に扱え)です。扱う事例によって異なる基準を用い、その差別的扱いが一般的な形で正当化されない場合、それは正義の名に値しないというように判定されます。
2012-01-03 20:54:36 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn 例えば「国家は殺人を禁じているのに死刑では国家が殺人をするのは矛盾である」という論拠による死刑廃止論は、この論法が殺人以外にも当てはまる(例えば「国家は強盗を禁じているが罰金刑を科している」)ので、「他の刑罰は残すべき」とその死刑廃止論者が考えるなら、
2012-01-03 20:58:00 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider まず、反転した場合に受容の対象となるのは、「正義構」ですか?私は、問題となっている「法命題」が受容可能かどうかが問われるのだと考えていましたが。
2012-01-03 20:58:31 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn (続き)殺人の場合だけ特別扱いする論拠が提出できない限り、先の死刑廃止の論拠は普遍化可能性を満たしておらず妥当性を欠くと主張することが出来ます。
2012-01-03 21:00:04 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider どの立場/価値観においても受容可能であることが(特殊的)正義構想として最低限満たされるべき条件である(=普遍主義的正義に適う)、と考えるわけですね。そうすると、私と同様の理解ですね、おそらく。
2012-01-03 21:05:38 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider ということは、私に向けられた先程の疑問をあなたも共有すると。そして、あなたの場合は、「だからこそ、反転可能性テーゼは法命題の正義適合性を判断するのに役立たない」と考えるわけですね。
2012-01-03 21:07:10 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider あなたは、反転可能性テーゼが無力であることを批判すると同時に、「普遍化可能性」という別のテーゼによって、ある法命題の正義適合性を判断すべきことを唱えるわけですが、ここでそのテーゼを「同一の範疇にあるものは同一に扱え」という意味だとおっしゃいます。
2012-01-03 21:13:17 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider アリストテレス以来、「正義」の定義はまさにあなたの言う普遍化可能性(「等しきものは等しく扱え」)なのですが、ロールズの格差原理や井上達夫の反転可能性テーゼというのは、その具体的内容を定めるものなのです。
2012-01-03 21:16:21 - 返信元ツイートを取得する

@Perfect_Insider つまり、そもそも「同一の範疇にあるかどうか」をどうやって見分けるかどうかこそが問題なのであって、そのために、井上によるエゴイズムの定義付けが行われているわけです。したがって、普遍化可能性テーゼを正義適合性判断基準にするといっても、その具体化が
2012-01-03 21:18:45 - 返信元ツイートを取得する


@Perfect_Insider ところで、死刑廃止論の論拠の話は、法命題ではなく、「論拠の妥当性」に関わる問題ですので、正議論の話とは次元が違うと思います。「論拠」が正義に適合するかどうかというのは、問題設定自体がおかしいと思います。
2012-01-03 21:24:10 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn まずエゴイズムについてですが、これは僕の方でも混乱がありましたが、井上の議論を読み返した範囲では「何がエゴイズムか」(=等しきものを等しく扱わないとはどういうことか)はほとんど自明なものとして扱われ、「なぜエゴイズムではいけないのか」が論点だと思います。
2012-01-04 10:25:02 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn 「論拠」と「法命題」についてですが、これを区分することには特に意味がないと私は思いますし、むしろ正義論で問題になるのは「論拠」の方だと思います。例えば井上がエゴイズムの例として挙げている「チョコレートの争い」(『共生の作法』p43~45)では、Bの行動が
2012-01-04 10:29:29 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn (続き)エゴイズムであり不正であるとされていますが、その理由は「Bがチョコを食べるべき」という結論を導いたからではなく、Bが自身の行動を正当化する「理由」を欠いており、「Bは『自分がBだから』チョコを食べるべき」という理由付けが行われているからです。
2012-01-04 10:31:56 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn 逆に「政府はA氏に金を与えるべきだ」という主張は、もし「政府は病気の患者に金を与えるべきだ」「A氏は患者である」という論拠から導かれる場合は少なくともエゴイズムであるがゆえに不正ではなくなりますので、論拠の方が重要だと思います。
2012-01-04 10:47:34 - 返信元ツイートを取得する

@HideAutumn なお、「等しきものは等しく」の具体的内容については、要するに「何が本質的に同一の範疇であり、何がそうでないのか」ということでしょうが、この具体的な答えは演繹的に一意に規定可能なものではなく、議論のプロセスによって確立されていくものだと考えています。
2012-01-04 10:51:08 - 返信元ツイートを取得する
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