
@ynabe39 望ましい結果に至る前に技術的なハードルがある場合についてはどう整理されるのでしょうか? 内的には「叱られ」ていても、技術的なハードルを越えられなければ「ほめられ」たのと同様の結果が生じる、というケースはよくありそうなので、気になりました。
2011-07-25 21:28:50 - 返信元ツイートを取得する


@ynabe39 適切な例かわかりませんが、禁煙問題であれば、禁煙を意欲させることはできるが、強く意志する・治療行為を受けるなど「ハードルを越える」ところまでいかない場合があると思います。「ほめる/叱る」は結果と直接的に関連付けられているように見えたので、
2011-07-25 21:35:46 - 返信元ツイートを取得する
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@ynabe39 「ほめる/叱る」と、結果の間に介在する要素(技術的問題)があるとすれば、それとの関係ではどう考えられるのかが気になりました。
2011-07-25 21:37:32 - 返信元ツイートを取得する

@fsxtnkn そもそも考えるべきなのは「禁煙するかどうか」だけで「意欲する」とか「強く意志する」とかは「第三者からの評価」に過ぎないように思います。「意志があって行動がある」という「迷信」に惑わされないように。
2011-07-25 21:37:34 - 返信元ツイートを取得する

@ynabe39 例えば禁煙の例で言うと、「禁煙」と言われること自体を拒否するレベル、言われたときに拒否はしないが行動に結びつく頻度が非常に少ないレベル、それよりは頻度が多いレベル、などのように区別できるはずです。これらの段階には何らかの違いがあるから頻度の違いが生じるはずで、
2011-07-25 21:48:32 - 返信元ツイートを取得する



効果的にほめることの頻度があがれば行動の頻度も増えます。効果的にることの頻度があがれば行動の頻度も減ります。RT @fsxtnkn: 「ほめる/叱る」を結果と直接的に結びつけるだけでは、頻度の増減をうまく説明できないのではないかと思ったのです。
2011-07-25 21:52:17 - 返信元ツイートを取得する


意欲とか意志とかの問題は「器質的な問題」なんですか? 器質的な問題がほんとうにあるならそれは意欲や意志以前に考えられるべき問題です。RT @fsxtnkn: 当の禁煙する人の器質的な問題は、「外的な環境の構造」に含めて理解するということでよいでしょうか?
2011-07-25 21:55:07 - 返信元ツイートを取得する

@ynabe39 同じ程度にほめたなら、同じ程度に効果すると実体的に考えない限り、その違いをもたらす要素として「器質的な問題」を考慮せざるをえないのではないか、と今のところ考えているだけです。
2011-07-25 21:56:50 - 返信元ツイートを取得する

@fsxtnkn それについての答えは先に述べました。「同じ程度にほめたなら同じ程度に効果する」などということは最初から考えません。ある人にどのようにほめたらその人の行動がどのように増減するか,だけが問題です。
2011-07-25 21:58:18 - 返信元ツイートを取得する

@ynabe39 ほめる/叱ることについて、何かしら「程度・類似」を観念しないと、そもそもある人を「ほめる」という言い方が、現にその語に対応する行動をとる時点で無意義になると思うのですがどうでしょうか?
2011-07-25 22:05:01 - 返信元ツイートを取得する

だから「ほめたかどうか」は結果としての行動の増減からしか判断できないと言っています。RT @fsxtnkn: ほめる/叱ることについて、何かしら「程度・類似」を観念しないと、そもそもある人を「ほめる」という言い方が、現にその語に対応する行動をとる時点で無意義になると思うのです…
2011-07-25 22:06:09 - 返信元ツイートを取得する

@ynabe39 厳格に結果としての行動の増減でしか区別できないのだとすれば、「ほめる/叱る」という行為に結びつく区分が成り立たないように思えました。
2011-07-25 22:13:55 - 返信元ツイートを取得する

@ynabe39 行為時点で(論理的な意味で)「ほめる/叱る」ことができないと考えるのであれば、「ほめる/叱る」という区分・名をとれないと思うし、
2011-07-25 22:15:33 - 返信元ツイートを取得する

@fsxtnkn 自分の視点だけで考えているからそうなりますし,時間の流れを恣意的に切り取っているからそうなるとも言えます。ほめるとかるということはそれ自体が「時間の流れ」を含んだ概念です。
2011-07-25 22:17:34 - 返信元ツイートを取得する

@ynabe39 行為時点で「ほめた/叱った」結果を実践的に参照可能だと認めるのであれば、その参照先はある個人に留まらない(似たような人の例を考慮する)のが通例になるのではないでしょうか。
2011-07-25 22:17:40 - 返信元ツイートを取得する

@ynabe39 私は、結果としての行動の増減による区別が成り立たないとしているのではなく、その区別に「ほめる/叱る」という、行動の増減を生じさせようとする側の働きかけに対応する呼称をわりあてられる理由がよくわからなかったのです。
2011-07-25 22:30:24 - 返信元ツイートを取得する

@fsxtnkn おお,それは正しい。だからわれわれは専門的には「強化」と「罰」という言葉を使います。ただ一般の人にわかりやすいように「ほめる」「る」の問題として話しました。わかりやすくすると不正確になるのはしょうがないですね。
2011-07-25 22:33:08 - 返信元ツイートを取得する

@ynabe39 「器質的」…と書いた点との関係が自分なりに整理出来ていないのですが、「ほめる/叱る」が「強化/罰」に対応している点については納得がいきました。ありがとうございました。
2011-07-25 22:45:39 - 返信元ツイートを取得する
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