
@watarloo 個人の差別的意識の要因として社会によって作られた要素が強いと主張するなら、その差別的意識や考え方を個人の持つ知性や教養の無さと結びつけて個人を批判することは筋が悪いのでは。
2011-01-25 07:18:15 - 返信元ツイートを取得する

@takamatti 個人の知識や教養は教育や環境によって培われるからといって、個々人の行為や発言が批判を免れるわけではないです。構築主義が個人の自由と責任と対立しないのと同様に。
2011-01-25 07:55:31 - 返信元ツイートを取得する

@watarloo 疑問が2つあります。1.差別的意識は知性や教養の無さと関係があるのかどうか。2.差別的意識が社会によって作られるのであれば差別的発言を行った個人を批判することにどの程度の意味があるのか。
2011-01-25 08:03:00 - 返信元ツイートを取得する
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A1.知性と教養は差別意識を反省的に考える条件にはなるでしょう。「これがあれば差別意識は持たない」というものよりも、自省と解決に向かうためには有用でしょうね。 @takamatti
2011-01-25 08:16:36 - 返信元ツイートを取得する

A2.差別に限りませんが、「社会や環境によって培われる=個人を免責する」ではない。個人こそが社会を形成し差別意識等々を再生産する主体なのですから、個々人が内面化した価値観や行った行為に責任や批判が為されて当然でしょう。 @takamatti
2011-01-25 08:19:47 - 返信元ツイートを取得する

@watarloo それは一理あると思いますが、知性や教養を持ちながら差別意識があったり、その逆に知性や教養がなくとも差別意識の薄い人も十分にいるような気が僕はします。”知性や教養のない人間が差別をする”という言説の持つ危険性と比べて十分な証拠とはならないのでは。
2011-01-25 08:36:22 - 返信元ツイートを取得する

@watarloo また、差別的意識の要因として個人の知性や教養をあげることは、ワタルさんの言う心的な還元と同じく差別を個に帰属させる方向の言説であるように僕には思え、社会に作られた要素が強いという言説との矛盾を感じます。
2011-01-25 08:38:57 - 返信元ツイートを取得する

私は「『差別する自由』などいう言葉を用いるのは知性や教養の無さの現れだ」という意味の発言は行いましたが、「"知性や教養の無さ”が差別意識の”要因”あるいは”原因”だ」とは申しておりませんよ。@takamatti
2011-01-25 08:43:45 - 返信元ツイートを取得する

@watarloo 2.差別的発言のみを批判するのであれば良いのですが、知性や教養とか精神病に結びつけて個人の人格まで批判することは差別構造をなくすために効果的であるのかすごく疑問です。むしろそういった人格批判は”差別主義者を差別する”という言説にリアリティを与えているのでは。
2011-01-25 08:46:20 - 返信元ツイートを取得する

知性や教養(<私にはたくさん足りないですが)の無さを批判することが人格を否定することになるのだとしたら、他人に知性や教養を求めることを忌避しあうことのほうが弊害大きいかと。 @takamatti
2011-01-25 08:52:33 - 返信元ツイートを取得する

@watarloo そうですね。勘違いしてすみませんでした。 >私は「『差別する自由』などいう言葉を用いるのは知性や教養の無さの現れだ」という意味の発言は行いましたが、「"知性や教養の無さ”が差別意識の”要因”あるいは”原因”だ」とは申しておりませんよ。
2011-01-25 12:46:37 - 返信元ツイートを取得する
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